今日はいつもとは違う内容の話をしたいと思います。
高知県の山深い山村で起こった奇跡の本当の話です。
長くなりますよ。
その話は今からずっと昔の昭和22年戦争で日本が負け、まだ日本全体が貧しく飢えていた時代です。
高知県の山深い山村というのは私の実家がある大豊町。
当時は 大豊村という名称。
そこで起こったあるバス事故が事の発端です。
当時の道路は今のようにアスファルトでもガードレールがついているわけでもなく、とても狭い砂利道の悪路でした。
その狭い悪路を一台の路線バスが通っていた所路肩を踏み外しバスが横転、下は崖になっておりバスは崖を転げ落ちて行ったそうです。
乗客を乗せたバスが崖を転げ落ちている途中崖の中腹に生えていた桜の木にバスが運よく引っ掛かりバスは下まで落ちずに助かりました。
ですが、その事故で運転手1人が死亡し中の乗客も大勢けがを負ったそうです。
今考えると、当時はまだ車が走っていることも珍しかった時代ですので当時の大豊村では初のバス死亡事故だったと思います。
昭和22年頃の大豊村には今のように大型病院は無く村の小さな診療所しかありませんでした。
そこへ消防団と当時の住民が力を合わしケガをしている者たちを次々と運んで行ったそうです。
その乗客の中に母親と一緒に日本各地を歌を歌いながら周っていた9歳の少女がいて、その子も大ケガを負い診療所に担ぎ込まれたそうです。
東京から来た歌手を目指す、小さな9歳の少女はケガが治るまで入院することになりました。
当時は今のようにスーパーやコンビニも無く戦後の食べ物も無い頃なので診療所も薬や食べ物に困ってようですが地域の住民が自分たちも食べ物に困る中、僅かの食べ物を毎日持ち寄り助け合ったそうです。
実はその中の一人に私の実の祖母(2012年7月に3回忌を無事に終えた)がいて、中でも東京から来た少女にはよく差し入れを持って行ったと話してくれました。
祖母が差し入れを持っていくと、色の真っ黒い顔をした目が鋭く光る母親がいつも「お嬢、お嬢、」と娘を呼び9歳の娘にお芋を蒸かしよく持って行ったそうです。
1ケ月半の入院の後、無事に少女は退院をしてお世話になった住民に挨拶をして東京へと帰る前に村に3000年も前から立つご神木「日本一の大杉の木」へ立ち寄りそこで命が助かった少女はその大杉を見て強く祈願したそうです。
「私もこの大杉のように日本一の歌手になる」とそういって少女は村を後にし帰っていきました。
悲惨なバス事故から数か月
僕の祖母。おばぁちゃんを含め村の住民は腰が抜けるほど驚いたそうです。
バスでケガをした少女は名前を変え瞬く間に戦後の日本を明るくする有名な歌手となりました。
その少女の名は
「美空ひばり」
美空ひばりさんの説明はいらないと思いますがこの話には続きがあります。
痛ましい事故から5年後の、美空ひばり14歳の時に忙しいスケジュールの中ひばりはこっそり大豊村に帰ってきたのです。
お世話になった地域の住民へ一人ひとりお礼を言い最後に命を懸けて祈願したあの大杉に立ち寄りそれは長い時間一人感謝の念を込めてお祈りをしたそうです。
今のように飛行機があったり、新幹線なども無い時代東京から高知へ来ることは2日以上の移動を要します。
しかも大スター、それでも美空ひばりがどうしてもあの大杉に会いに来たかった理由は何となく解ります。
美空ひばりは生涯、大豊村で起こったことをあまり人にしゃべらなかったそうです。
それはとても辛い下積み時代の話でしょうしましてや9歳の少女で見知らぬ土地でのバス死亡事故に遭遇したなら当然でしょう。
私が小さかった頃、美空ひばりがテレビに出ると、決まって私のおばぁちゃんが嬉しそううに話してくれました。
「この子はね、いつもお嬢、お嬢、と呼ばれてねぇ~。🎶」
日本人なら昭和の歌姫と聞くと多くの方が美空ひばりの名をあげるでしょう。
その有名な美空ひばりがまだ、美空ひばりになる前のお話し小さな村人との深い絆で結ばれた秘密のお話でした。(写真は14歳の頃お忍びで帰ってきた美空ひばり)